日语复句句式变化研究:从格成分看连体到连用的连续性
上QQ阅读APP看书,第一时间看更新

第二節 文の構造的分類

人間は、言語を使って言語活動を営むことにより、言語に託されている機能を実現する。文はそういった言語活動の基本的単位である(仁田義雄1989)。日本語においては、文は性質や構造の違いによって、以下のように分類できる。

(9)日本語における文の分類

(A)性質上の分類[1]

 (I)表現意図によって——平叙文、疑問文、命令文、感嘆文

 (II)述語の種類によって——動詞文、形容詞文、名詞文

(B)構造上の分類

 (I)単文·重文·重文三分説

 (II)単文·複文二分説

 (III)単文·複文否定説

性質上の分類はいわば述語の活用語尾の違いによるものと語幹の違いによるものである。一方、構造上の分類は通常単文、複文を指すが、実際日本語の文の構造的分類に関しては、単文·重文·複文三分説と、単文·複文二分説と単文·複文否定説という三つの立場がある。以下、この三つの説を紹介するが、その上で本研究の立場を述べる。

2.1 単文·重文·複文三分説

複文(complex sentence)という概念はもともと印欧語の文法研究で用いられた術語である。日本語の国語研究に「複文」という概念が導入されたのは、印欧語からの影響であると言われる[2]。英文法では、文は「単文(simple sentence)」、「重文(compound sentence)」、「複文(complex sentence)」という三分類がなされているが、単文とは——独立節とも呼ばれるが——主題と動詞を含むもの、重文とはコーディネーター(coordinator)でつながれる2つの独立節を含むもの、複文とは独立節を一つ以上の従属節でつなぐものを指している[3]

国語研究の早期では、西洋文法の複文という概念が導入されたと同時に、西洋文法における文の構造的分類もそのまま日本語の文研究に取り入れられた[4]。例えば、橋本進吉(1948)は文節を文の成分とする考えのもとで、文の構造を「単文」、「重文」、「複文」に分けている。橋本文法では、単文とは、主語·述語の関係が一回だけ成立する文で、重文とは対立節から成り立つ文であり、そして複文とは主語·述語の関係が二回以上成立する文のことであるとされている。

西洋文法の影響を受けた単文·重文·複文三分説は国語研究の早期だけではなく、阪倉篤義(1983)、高橋太郎(2003)など最近の研究にも見られる。

阪倉篤義(1983:74–75)は構造から、文を単文、複文、重文という三種類に分類しているが、「主語·述語の関係をそなえたものが、まとまった文の一成分となっている場合、これを節と呼」び、「節を含まぬ文、すなわち主語·述語の関係が一回しか成立しない文」を「単文」、「従属節を含む文、即ち主語·述語の関係が二回以上成立する文」を「複文」、「対立節から成る文(同じく主語·述語の関係は二回以上成立する)」を「重文」と規定している。

高橋太郎(2005:225–259)は文を、(a)ひとえ文(普通の単文に相当する)、(b)ふたまた述語文、(c)あわせ文(「複合文」)に分けている。その中で、あわせ文をさらに「かさね文」と「つきそいあわせ文」に分類している[5]。高橋氏は三分法を取ってはいるものの、氏でいう「ふたまた述語文」は重文とはやや異質的なものである。高橋氏の「ふたまた文」は一つの主語に対して二つの述語がある文を指すが、普通重文と言われるものは主語が二つ現れる場合も含まれているので、高橋氏の「あわせ文」の中の「かさね文」に相当している。このように、高橋氏における文の三分類は国語研究の早期の三分法とやや性質が違うが、三分法を取る点では上記の先行研究と共通している。

2.2 単文·複文二分説

前述したように、日本語国語研究の早期では文は単文、重文、複文に分類されていた。日本語の文を英語のように三分類することに対して、山田孝雄(1908:1410、1936:1067)は、「世の文典家の三分説はみなこれを墨守せるものなり」と批判し、単文と複文の二分法を取るという主張を示した。

日本語の複文をわりと早い時期から論じた山田孝雄(1908、1936)は、日本語の文について、一つの「句」で成立する単文と、二つ以上の「句」が集まって一体となった複文に分けて、更に複文を重文·合文·有属文に細分した[6]。つまり、山田文法では、従来で言われる「重文」という種類が複文の一種として編成しなおされたのである[7]

複文の下位分類に関する山田の分類については、あまりにヨーロッパ流の文法論で、日本語の実態をいいえていないという指摘もなされてきたが、単文·複文の二分法を取る山田の考えは、それ以降の研究に大きな影響を与えた。現在の日本語研究では、単文と複文という二分法は殆ど共通の認識として広く認められている。例えば、鈴木重幸(1972)、寺村秀夫(1982a)、益岡隆志·田窪行則(1992)、小矢野哲夫(1995)、益岡隆志(1997a)、野田尚史(2002)、村木新次郎(2007)、日本語記述文法研究会(2008)、仁田義雄(2009)、前田直子(2009)はいずれも単文·複文の二分法を取る立場である。

二分説と三分説の最も大きな違いは、重文の扱いである。三分説は重文を複文と同レベルのものと位置付けるのに対して、二分説は重文を複文の下位分類として位置づけている。例えば、益岡隆志·田窪行則(1992)、益岡隆志(1997a)、野田尚史(2002)、高橋太郎他(2005)[8]、村木新次郎(2007)、前田直子(2009)などは、いずれも重文に相当する「並列節」を複文の一種としている。

2.3 単文·複文否定説

単文·複文否定説は日本語における単文と複文の区別がそもそも無意味であると主張する立場である。

松下大三郎(1974、1977)は従来の構造上の分類としての単文、重文、複文の区別を排除し、「単断句」、「連断句」という形態的分類を提唱している。松下文法のこのような形態的分類は、当時の山田文法の分類を批判したものである。

単文·複文という文の構造的分類をより積極的に否定しようとするのは高橋竜雄(1934)、三上章(1963)である。高橋氏は「真に国語の構成を知ろうとするには、まず第一に英文典の無益有害な単文、合文〔重文〕、複文の説明を、全然破壊しなければならぬ」と述べている。三上章(1963:43-44)は高橋竜雄(1934)の説を踏まえて、(9)における文の分類の仕方に対して、(A-I)は無難で、(A-II)も文法研究の心得としては捨てられないと評価する一方、(B)の分類は全く無益有害であると批判している。つまり、単文と複文の区別を否定する見解を示しているのである。

三上氏は単文と複文の区別を否定しているが、これは言い換えると、述語(用言)の陳述形(定形)と非陳述形(非定形)[9]を単純に二分すべきではないという考えの結果である。陳述形と非陳述形が明確に二分される英語などの言語では、「節」と「句」の区別に——そして、その結果として単文と複文の区別に——意味があるが、そうでない日本語ではそうした区別を設けることは意味がないと三上は言う[10]。単文と複文の区別を西洋文法から無批判に取り入れていたそれまでの研究に対して三上は批判的だった。

2.4 文の構造的分類に関する本研究の立場

上記では、文の構造的分類に関する三つの立場を見てきた。以下、これらの説の妥当性について考え、本研究の立場を述べる。

先ず、単文·複文否定説から見てみよう。

松下文法では、単文·複文の代わりに「単断句」、「連断句」という分類が提出されている。しかし、このような形態からだけの分類については、「日本語の文は処理しきれないものを含」み、また「陳述論が問題にするような複雑な文成立のメカニズムには迫れない弱点をもっている」という問題点が指摘されている[11]。また、三上氏が単文と複文を区別する見方について否定的な立場を取るのは、氏が提唱した主語廃止論[12]による。三上は日本語の主語を認めない立場を取り、主述関係を否定し、題述関係を主張している。そのため、三上にあっては、主語と述語を含む節、またそれ以下の句をそもそも区別する意味がないのである。

それに対して、柴谷方良(1978:197、1985)は、「三上の主語廃止論の弱点は主格と主語を余りにも強く結び付けて考えたところにあ」り、「三上のように主格その他の格のみを認める分析では尊敬語化現象·再帰代名詞化現象を引き起こす特殊な名詞節が日本語にあるという事実が明確にされ得ない」と批判し[13]、主語肯定説を唱えている。

本研究は、主語肯定説に賛成し、単文、複文のような構造上の分類を認める立場を取る。文の構造的分類を認める説として三分説と二分説があるが、前述したように、三分法を取るか二分法を取るかは基本的に「重文」に対する扱いで異なる。重文を複文と同レベルのものとするかそれとも複文の一下位分類とするかは、複文に対する認識が大きく関わっている。

重文を複文と同レベルに位置づける三分説は複文を狭義的に捉えているが、重文を複文の下位分類に位置づける二分説は複文を広義的に捉えている。構成要素である「従属節」と「主節」が従属関係にあるものという狭義的な捉え方を取ると、並列関係にある重文は複文から排除されてしまう。一方、構成要素が複数組み合わさるという広義的な捉え方をすると、節と節が対等的関係にある重文も複文の中に入ることになる。

但し、複文を狭義的に捉える三分説には次のような問題点がある。先ず、三分説は複文に対して従属関係という狭義的な捉え方をしているが、このような従属関係はよく従属節が副詞的な役割を果たすことを意味するとされている。それに対して、早くも山田孝雄(1908:1408-1410、1936:1062-1066)から批判されたように、「この種の文は論理學にいふ所の約結命題の性質を有せるものにして、上句は決して下句の従屬物にてはあらぬなり。即ち上句に説く所の事成立せずば下句に説く所は實現せずといふ如き關係にあるものにしてこれを副詞的といふは全然謬」である。また、小矢野哲夫(1995)も、重文は二つの文を対置するということでは、(狭義的)複文と同じであり、重文と(狭義的)複文との違いは「対置のし方」の「統語論上の区別」に過ぎないため、両者をあわせて(広義的)複文[14]に属させるべきと論じている。なお、三分説を取る高橋太郎他(2005:254)も、重文の中に先行節と後続節が対等的でなく、多少とも従属的であるものがあり、狭義的複文と重文との間に明確に線引きできないところがあると認めている[15]

以上の理由から、本研究では文の構造的分類について、単文·複文の二分説の立場を取る。本研究は複文という構文タイプに目を向けて考察を加える。